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エリサ・ラム事件:エレベーターに遺された「拡散された狂気」とデジタルの野次馬たち

「彼女は誰と、何を話していたのか?」 2013年2月、ロサンゼルスの中心部に位置する、悪名高い「セシル・ホテル」。その屋上に設置された巨大な貯水タンクの中から、21歳のカナダ人学生、エリサ・ラムの遺体が発見された。

この事件を一躍、世界的な「ミステリー現象」へと押し上げたのは、警察が公開した一本の防犯カメラ映像だった。エレベーターの中でエリサが見せた、あまりにも不可解で、背筋が凍るような奇妙な行動。その映像はYouTubeを通じて瞬く間に拡散され、デジタル時代の新たな怪談として人々の心を支配することになった。

古ぼけたホテルの廊下の突き当たり、エレベーターのドアが開いたまま静止し、不気味な光が漏れる光景

エレベーターが捉えた「非現実的な数分間」

公開された約4分間の映像には、常識では説明しがたいエリサの姿が記録されていた。

彼女はエレベーターに乗り込むと、全ての階のボタンを連打するが、ドアはなぜか一向に閉まらない。何かに怯えるように、あるいは誰かを覗き込むように、何度も廊下を伺い、身を隠す。そして最も不気味なのは、廊下に向かって手先や腕を使い、まるで目に見えない「誰か」に何かを熱心に説明しているような、人間離れした動きのジェスチャーを繰り返していたことだ。

やがて彼女はエレベーターを降り、暗い廊下の向こうへと消えていく。その直後、まるで魔法が解けたかのようにエレベーターのドアは静かに閉まった。これが、彼女が生きていた最後の姿となった。

ネット探偵団(Internet Sleuths)の狂宴

この映像は、世界中の「ネット探偵」たちの好奇心に火をつけた。

セシル・ホテルがかつてシリアルキラー、リチャード・ラミレスの定宿であり、数多くの自殺や変死が起きた「曰く付きの場所」であったことも火に油を注いだ。

「彼女は超常的な存在に憑依されたのだ」「ホテルの従業員が何かを隠している」「彼女は政府の薬物実験に利用された」。人々はエリサの死をミステリーエンターテインメントとして消費し、現場に押し寄せ、無実のミュージシャンを犯人扱いしてSNSで攻撃するといった暴挙に出た。ネット上に溢れる「陰謀論」という怪物が、一人の若い女性の孤独な最期を、きらびやかで恐ろしい「物語」にデコレーションしてしまったのである。

悲しい真実:鏡の中の「敵」

しかし、検死報告書と警察の徹底した捜査が導き出した結論は、あまりにも現実的で、そしてあまりにも悲しいものだった。

エリサは重度の 双極性障害(躁うつ病) を患っており、事件当時、処方されていた薬を正しく服用していなかった(あるいは意図的に止めていた)。

エレベーターでの奇妙な行動は、幽霊でも殺人鬼でもなく、薬物離脱による 躁状態の妄想や幻覚(精神病エピソード) によるものだったのである。

「誰かに追われている」という激しい妄想に駆られた彼女は、逃げ場所を求めて屋上の貯水タンクに辿り着き、自ら中へ入り、そして出られなくなった。エレベーターのドアが閉まらなかったのも、彼女が「ドア開放ボタン」を押し続けていたという単純な物理現象に過ぎなかった。

スマートフォンの画面に映る、ノイズ混じりのエリサの映像を凝視する現代の若者の後ろ姿

現代怪談の肖像:消費される死

エリサ・ラム事件が真に恐ろしいのは、その死の状況以上に、彼女の死を「コンテンツ」として楽しんだデジタルの野次馬たちの姿である。

精神疾患というセンシティブな現実が、情報の海の中でオカルトミステリーへと変換され、真実が明かされた後もなお「いや、まだ何か隠されているはずだ」と食い下がる人々のエゴ。

セシル・ホテルの屋上の冷たい水の中に沈んでいたのは、一人の脆弱な魂であり、それを覗き込んでいたのは、画面の向こう側の「私たち」という怪物だったのかもしれない。彼女の悲劇は、インターネット社会が持つ無意識の残酷さを映し出す、最も現代的で不吉な「怪談」なのである。

関連する未解決の謎 *ディアトロフ峠事件(Dyatlov Pass Incident) : 極限のパニックが招いた遭難事件の先駆け。 *Qアノン(QAnon) : 集団的なインターネット上の妄想が、現実を侵食した極致。