切り裂きジャック(Jack the Ripper):霧のロンドンが産んだ「世界初の劇場型シリアルキラー」

「親愛なるボスへ(Dear Boss)」 犯罪史において、これほどまでに人間の暗い好奇心を惹きつけてやまない名前は他にない。1888年の秋、ロンドンのイーストエンド、どん底の貧民街ホワイトチャペル。産業革命の光の届かないこの暗い路地裏で、少なくとも5人の娼婦が次々と喉を真一文字に掻き切られ、内臓を引きずり出されるという残虐極まりない手口で殺害された。
警察署や新聞社宛てに送りつけられた、赤いインク(あるいは血)で書かれた挑発的な手紙。そこに署名されていた名こそが、 「切り裂きジャック(Jack the Ripper)」 である。

「劇場型犯罪」の誕生とメディアの狂熱
切り裂きジャックは、歴史上最初の連続殺人鬼というわけではない。彼以前にも残虐な事件は存在した。しかし、彼は間違いなく 「大衆メディアによって作られた、世界最初のスター犯罪者」 であった。
19世紀末のロンドンは、近代的な警察機構が整い始めると同時に、安価な大衆紙(ペニー・ペーパー)が普及し、市民の識字率が飛躍的に向上した時代だった。新聞社は発行部数を伸ばすため、血生臭い事件をセンセーショナルに書き立てた。ジャックから送られてきたとされる「Dear Boss」の手紙や、人間の腎臓の半分が同封されていた「From Hell(地獄より)」の手紙は、連日紙面を飾り、市民は恐怖に震えながらも、次なる「殺人劇」の報道をむさぼり読んだのである。
犯人もまた、その熱狂を理解していたかのように振る舞った。警察の無能を嘲笑うかのように犯行を重ね、警戒が最高潮に達したところで、霧の中に忽然と姿を消したのである。
迷宮のプロファイリング:外科医か、肉屋か?
ジャックの正体をめぐっては、当時から現在に至るまで数え切れないほどの「容疑者(リッパロロジストの標的)」が挙げられてきた。その根拠の多くは、遺体から子宮や腎臓といった特定の内臓が暗闇の中で素早く、かつ正確に摘出されていたという点にある。
医師または解剖学者説 : 高度な外科的知識を持つ上流階級の人間。シルクハットに黒いマントという「貴族的なジャック」のイメージはこの仮説から生まれた。
屠殺業者(肉屋)説 : 鋭利な刃物の扱いに慣れ、血にまみれて歩いていても怪しまれないホワイトチャペルの労働者階級。
王室陰謀論 : ビクトリア女王の孫であるクラレンス公や、王室の主治医ウィリアム・ガルが、スキャンダルを隠蔽するためにフリーメイソンの儀式に則って暗殺したという、映画『フロム・ヘル』でも描かれたオカルト的な説。
現代のFBIのプロファイリングなどに照らし合わせれば、犯行現場が狭いエリアに集中していること、深夜の路地裏の構造を熟知していることから、外部から馬車で乗り付けるような貴族ではなく、 「現場付近に住む、目立たない風貌の地元住民(労働者階級への憎悪や精神疾患を持つ単独犯)」 という見方が最も現実的である。

なぜ私たちは「彼」を求めるのか
事件から100年以上が経過した今も、切り裂きジャックは『名探偵コナン』や『Fate』シリーズをはじめとする無数のポップカルチャーやエンターテインメントの中で消費され続けている。彼はもはや実在の殺人鬼という枠を超え、近代都市という匿名空間が必然的に生み出した「顔のない悪意」の象徴(イコン)となった。
正体が暴かれず、決して裁かれることがなかったからこそ、ジャックは永遠の命を得た。私たちの心の奥底にある「得体の知れない恐怖への渇望」こそが、霧のロンドンに今も彼を立たせ続けているのである。 *ゾディアック事件(Zodiac Killer) : ジャックの手法(警察やメディアへの手紙と挑発)を現代のアメリカで模倣し、同じく迷宮入りとなったシリアルキラー。