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ネクロノミコン:虚構が生んだ「実在」の魔道書と、狂えるアラブ人の遺産

「永遠に横たわることなきものは死することなく、奇異なる永劫の中では死すらまた死する」 『ネクロノミコン(Necronomicon)』。この名を聞いて、ゾッとするような期待感を覚える人は少なくないでしょう。これは、20世紀最高のホラー作家H.P.ラヴクラフトが生み出した、文学史上もっとも有名な「実在しない」魔道書です。しかし、この本の影響力は、もはや単なる創作の枠を大きく踏み出しています。

『アル・アジフ』:狂気へと至るアラブの詩

ラヴクラフトの設定によれば、この本の原題は 『アル・アジフ(Al Azif)』 。アラブ人が夜間に耳にする虫の音、すなわち「悪魔のざわめき」を意味します。

著者は8世紀のダマスカスで活動した、「狂えるアラブ人」アブドゥル・アルハザード。彼はアラビアの砂漠にある失われた都市(アイレム)で旧支配者の秘密を学び、その知識をこの本に記した後、白昼堂々、群衆の面前で見えない怪物に貪り食われたとされています。

古びた革のような、人の皮膚を思わせる質感の表紙を持つ禁断の書。ページからは黒い触手が漏れ出し、不気味な紫色の光を放っている。

あまりにも精緻な「嘘」の年表

ラヴクラフトが天才的だったのは、この本に嘘偽りのない「学術的な背景」を与えた点です。

西暦950年のギリシャ語訳、1228年のラテン語訳、そして大英博物館やミスカトニック大学といった実在(および半実在)の図書館への収蔵。さらに、ラヴクラフトの友人である作家たち(クラーク・アシュトン・スミスやロバート・E・ハワード)も自作でこの本を引用したため、読者の多くが「ネクロノミコンは実在する禁書である」と本気で信じ込んでしまったのです。

今でも、世界中の古書店には「ネクロノミコンの写本はないか」という問い合わせが絶えないと言われています。

嘘から出た真:現代魔術としてのネクロノミコン

この現象の最も興味深い点は、この「偽書」が実社会に実体を持って現れたことです。

1970年代以降、ファンやオカルト研究家たちの手によって、「私が本物の写本を発見した」と銘打たれた書籍がいくつも出版されました(最も有名なのは「サイモン版」)。

さらに、現代の カオス・マジック などの魔術実践者は、ネクロノミコンがフィクションであることを承知の上で、そこに記された神々(クトゥルフやヨグ=ソトース)を強力な象徴として扱い、実際に儀式を執り行っています。「信じることが力を生む」という魔術の根本原理において、ネクロノミコンはもはや「本物」以上の存在となったのです。

現代の地下室。ろうそくの光に照らされた若者が、ネクロノミコンのレプリカを広げ、背後の壁に投影された名状しがたい影に向かって祈りを捧げている。

深淵を覗くとき

ラヴクラフトはかつて「人間が最も古く、もっとも強い感情は恐怖であり、その中でも未知の恐怖が一番強い」と述べました。ネクロノミコンは、まさにその「未知」を閉じ込めた器です。たとえそれが紙とインクでできた幻であっても、ページを開こうとする者の指先には、今も変わらず深淵からの冷気が伝わってくるはずです。 *クトゥルフ神話:宇宙的恐怖の系譜 : ネクロノミコンが語る、人類以前の支配者たちの神話体系。 *ピカトリクス:実在したアラブの魔道書 : ネクロノミコンのモデルの一つとも目される、実在のアラブ占星魔術書。